そんな状況で型を意味不明のものと思っていませんか?
でも安心してください。
この記事では、そんな空手の型の意味に関してお悩みの方に向けて「空手の型が意味するもの」を詳しく解説していきます。
本記事を読み終える頃には、空手の型が意味する実戦から創出された術技の極意が理解できてくるでしょう。
空手の型の意味するもの
空手だけでなく日本の古伝の武術は、どの流派も例外なく技の伝承法として「型」を残し伝えているのです。
実戦で己の身体、生命を守り相手を制圧するために必要なものとして「型」を選び、「型」に命を託したのです。
鋳型にはまった実戦のひな型などではなく、その動きの眼に見えない本質部分に秘められた身体のあり方を含めた「技」なのです。
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言いかえると、型によって得られる技は、形としては見えないもの。すなわち型における手順や形態的な形そのものは意味がないとも言えるものとなります。
空手の型とは?
武術としての技は、文字や言葉で伝授できるものではなく、実際の動きが「武」であり「術」となるものであり、単に力やスピードに頼ったものではないのです。
この力やスピードに大きく依存しているのが競技空手であり、スポーツなのです。
しかし、「武術」の動きというものは、外見的な動作は何ら変わりはないのですが、日常的な動作とは質が違うのです。
その日常の立ち居振る舞いとは違う異質の世界に導くのが「型」であり、型そのものは術でなければならないのです。
したがって、型とは、実戦そのものから想定され、自己の生命の保全と敵を制する術技の出来る身体を創り上げるための方法として定型化されたものです。
だからこそその生きた型の修練によって得た術技に命を託すことができるのです。
型通りの正確な体捌きによる技は、スポーツにおける動体視力がいくら優れていても、決して肉眼ではとらえることが不可能なのです。
ちょうど手品師がトランプやコインを操る手さばきが眼に捉えられないのと同様に消えてしまうかのようです。
これが型による真の技の速さです。
このように、型によって修練された術技は、目に見える形としての存在ではなく、型によって理論化された動き方の質が変わり、そこで初めて、動きそのものが「技」として存在をあらわにするのです。
そのような次元の異なる世界へ導いてくれるものが「空手の型」です。
現代における空手(武術)練習の意味
現代は戦国時代のように生命をかけて自分の主張を武術としての技や武器で通せる時代ではありません。
理由はどうあれ、素手で相手をなぐり倒せば傷害罪、真剣を許可なく保持していれば刀剣不法所持罪となり、喧嘩にでも使おうものなら凶器準備罪などとして、生命を懸けての決闘や果し合いなどが一般的に許されていない時代なのです。
そうした現代で「武術」の存在する意味があるのでしょうか?
「後来、習態の容形を除き、本来、精妙の恒体に復す」
現代語に直すと「生まれて成長する過程で、いろいろな経験の中で感じ方、考え方がクセとして身についてしまう。そのクセが自我となり、様々な衝突が生じてしまう。そうした自我の小さなこだわりや世界観を捨てるための修行によって本質的に「強くなる」ことができるのです。
この武術の練習を通して、語られている言葉は現代でいう「自己実現」のための具体的かつ究極のシステムを単なる知識としてでなく「技」を通して獲得してることで、生命や人生を達観できるような精神的深さを身につけてしまっている。
したがって、空手をはじめとする武術の練習そのものは現代に生かすことは難しいが、練習によって得られる「技」の要素が「極意」にたどり着けば、それまでの「価値観」が変わってしまうので人生そのものが大きく好転することでしょう。
空手の型の練習方法
空手の型練習においては、それこそ徹底的に鋳型に押し込めるが如く、型の完璧性を追求して、追求し抜くのです。
ただ単に動作の手順を示すものが型ではなく、型の階段に従って、型がそこで要求しているとおり、型の訴えどおりに正確に動けなければならないのです。
とにかく人として行くことのできる技術的段階の限界であり、しかもそれは、単なる術技のみではなく、その修業を通じての精神の鍛錬、働きにおいても同様で、三位一体、人格の陶冶は口で説くものではなく、日々の型稽古の修錬によってこそ完遂されるものです。
それには稽古を始める前に、型をどのように捉え、認識するかが重要な問題となってくるのです。
空手の型稽古の目的を「組手技術の向上」としてしまうと、表面的には組手の試合には結びつかないようにみえるので「型稽古不要論」が話題にされるのです。
空手の技は、文字や文章で伝授するのでなく「術の世界に存在する動作」が必要とされるのであって、シンプルな力や速さに頼ったスポーツ的なものとは全く次元の異なるものと言えます。
型の階段に従って、型がそこで要求しているとおり、型の訴えどおりに正確に動ければ、それはすでに極意となるのです。
ただし「次元の異なるもの」というのは確かですが外見上の身体の動作に変わりなんてないのです。
真の技の速さや強さというものは「体捌き」から生じるものであって、単純な体力や脚力による手足の速さでは生じません。
中心軸(正中線)の確立
「次元の異なる技」としての体捌きのためには、身体の中心軸(正中線)を確立させ手や足の気配、動きを消さなければなりません。
普通に歩けば、いくら静かな摺り足にしたところで左右の足へ重心が移動してしまい武術としての歩く足捌きを身に付けることはできません。
そこで、正中線を崩さずに歩くための「無足の法」と呼ばれる術法の習得が必要なのです。
正中線が微動もしないで動くための基礎的技術を「型」によって入身、半身そして沈身の法などで「次元の異なるもの」として俊敏軽捷に、さらには神速に動けるように、真摯に追い求めなければならないのです。
その正しい型こそが、居付かずに敏速に動くため、すなわち自分の命を守るための必然性から生まれた無形の自然体ともいえます。
空手の型の基本はナイハンチ
空手の型の意味するものはお分かりいただけたと思いますが、数多くある型の中から、基本として最初にナイハンチの型をマスターすることが達人への必須条件です。
武道の予備知識をまったくもたない初心者の多くが基本型として平安(ピンアン)の型を学んだ後に指導されています。
このことは指導する側に問題があるのですが、多くの流派のほとんどが平安(ピンアン)の型を初心者用として、気づかずに、教えているのが現状です。
ところが、この型は首里手のエッセンスを集めて創作された型なのです。
詳しくは下記を参照してください。

このことによって、上記の「空手の型とは?」の繰り返しになりますが、「武術」の動きというものは、外見的な動作は何ら変わりはないのですが、日常的な動作とは質が違うのです。
この「日常的な動作と質が違う」ことに当然のことながら初心者は気づけないのです。
その結果が「型」を力やスピードに頼った日常的な動作の延長線の形骸化したものとなってしまっているのです。
ナイファンチの型は「首里手における身体操作から技法に至る全ての秘密が秘められている」とまで言われている首里手の重要型です。


上記の二つの記事を読んでいただければ、如何に基本の型としてナイハンチが重要であるかがお分かりいただけます。
古の達人たちはみんな「型稽古」によって達人になっています。
まとめ―型の存在意義
空手やそのほかの武術史に残る達人たち信じられないような逸話や伝説となっている「神技」も、誤解を恐れずに一言で結論づけると「型の一人稽古」によって「技」の探究に取り組むことによって自分そのものを見つめ、成長させた結果です。
「型稽古」による武術は正しく修練すれば、決して形骸化されてなくなるものではありません。
武術の型の存在意義は、人間の隠された能力や可能性を開発できるヒントが隠されており、あなたが人生を生き抜くための必要不可欠な何かを見出すことができるものではないでしょうか。
少しでもあなたの悩みに該当するような内容があれば、御覧ください。
最後まで記事をお読みいただきましてありがとうございました。