武道

空手で学ぶこと!和道流創始者・故大塚博紀名人の武道論


和道流空手で学ぶことといえば、空手の特徴である、突く蹴る打つの技法を日本武道化し、更に新らしく工夫した和の術であるとした創始者・故大塚博紀名人の「和道流空手は日本武道の精髄」という武道空手の体系を理解することです。

武道修業の目的

人それぞれその考え方に違いがあるため、武道修業の目的も、また、人によって千差万別です。

 武の道は、ただあら事とな思ひそ、和の道究め和に求む道

 これは大塚流祖が詠まれた道歌です。

その意味するところは「武の道というものは、闘争の技術(荒い事)に本質があるのでは無い。

和の道を究めること、和にこそ武道の本質がある」ということになります。

しかしながら、ほとんどの人は、初めその目的が違っていても修行を続けている内に、単純な目的だけでは何か心にもの足りなさを感じ、これによって何物かをつかもうとすることに至ります。

そして、だんだんと、精神面へ入り込むようになるものです。

そうなることを通して、いよいよ人聞性が研ぎ澄まされることになります。

そうだとしても、ただ単に精神面や人間性の鍛錬が目的ならば、武道の鍛錬以外に方法は幾らでもあるでしょう。

然し、精神の正しい鍛錬と云うものは、どんなときも簡単に進まないものです。

この困難を敢て突破するには、生死を対象としての鍛錬である武道修業が有効性が高いといえます。

しかし生死を対象とした真剣な武道の修業は、あたかも劇薬の如きもので、その活用法を間違うことがなければ、効果極めて大ですが、反対に之を過まる時は、身を亡ぼし社会を毒するに至ることになります。

精神修養を目的とする境地に至るまでの間に、邪道に陥らぬよう精進しなければならないのです。

武道の鍛錬目的は、常に、この厳しい修錬によって如何なる難事にも屈することのない精神力とそれに耐え得る体力とを養うのであります。

即ち、武道精神の鍛錬ということを意味します。

武道精神とは何か

人類の平和は、口には云いやすいが、これまでの歴史を確かめてみるまでもなく、昨今の世界情勢をみても、或は不可能事であるとさえ想定できる。

けれども、どれだけ至難の業であろうとも、この平和を人類社会にまねきよせなければ、自分達の生活は決して幸福になり得ないのです。

何はともあれ、何としても平和を招来しなければならないのであります。 

然もこれをまねきよせるのは、専ら人間の力によってのみなし得ることになります。

この不可能に近い武道理念としての平和を実現するためには、我ら人間に特異な精神力が欠かせないのであります。

即ちこの特異な精神力が武道精神ということになります。

武道精神は、武の本願である人類の平和と幸福を成すための断行力となることになります。

その目的達成を望むなら、どのような難事といえ服することなく、その難局を克服して真っ当な目的の遂行を断行せずんば止まない厳しい精神です。

武道精神と武技鍛錬との関連

武技の鍛錬は、絶えず、相手の状態を間髪を入れずに確実に感知して、その事態に相応しい行動を瞬時に実行して、寸秒の躊躇逡巡も許されないのです。

このような鍛錬を長期に亘って反覆錬磨することにより感応力、思考力、判断力等の潜在能力が高められるのです。 

また寒稽古に取り組んだり、合宿強化鍛錬であったり殊更厳しい修業を行うことによっていかなる困難にも屈しない不屈不撓の精神力とそれに耐え抜きうる体力とが育成されるます。 

武道は礼に始まって礼に終わる

武道の礼儀作法は品位と合わせて、その一挙手一投足にも寸分の油断も無く、いつ如何なる際でも直接的にその事態に合わせて如何ようにでも身構えの調整が可能な礼儀作法でなければならぬことが、普通の礼儀作法と異なるところです。

常住坐臥、この作法の鍛錬によって、心に緩みのない精神が鍛えられることになります。

武道の修業が、もしも礼を失う時は、邪道に陥り易いのです。

従って、武道を学ぶ者は、師と仰ぐ人の教えは、常に之を敬重して、師はまた学ぶ者の資質、能力、体力といったものをきめ細かく意識して、それに当て嵌まるように思い遣りのある情で深切に、然も厳正に指導しなければなりません。

また、学ぶ者各々は、常日頃、思いやりのある交情心で互に切磋琢磨し合うことだと言えるでしょう。

このような触れ合いが、積年に亘って続けられると、そこに優美な徳性と情操が身につくことになります。

人間は自分自身を誰よりも愛する。

だが、真に自分自身を愛する者はまたよく他より愛される。

真に自分自身を愛するならば、社会を愛し人類を愛さねばなりません。

社会を愛し人類を愛する者は、社会より、また、人類より愛されるということになります。

他を愛し社会を愛し人類を愛してこそ、真に自分自身を愛することになるのです。

欲望の追求が人間生活

人間はそれに加えて、生まれ持った欲望で自分が幸福でありたいと望むのです。

そして、人間は個人ではこの世に生存出来ません。

相寄り、相集まって社会を形成しその一員として、初めて生存が可能なのであります。

そんなわけですから、社会そのものが幸福でなければ、個人の真の幸福などあり得ません。

また、真の幸福は平和な社会にだけ存在がゆるされている。

平和な社会においてのみ、正しい自由な満足される人間生活を営むことが出来ることになります。

そして、敬愛心が人の和を生ずる。

相互敬愛が自分自身を和にし、他を和にし、社会を人類を和にするのであります。

この和が、武道本来の根本理念なのです。

武道が礼に終始して之を最も重んずる所以は、和を求むるにあるからです。 

ここに至り武技の鍛錬により高められた智能力、培い養われた優美な徳性、情操、鍛えられた不屈不僥の精神力と頑健な体力が武道本来の理念である簡単に進まない平和を推進する起動力となるのであります。

平和推進の起動力である武道精神を修養するための武技鍛錬なのです。

武道は和の道であり武技は和の技である。

武技は和の表現で理論的であり科学的でもあります。

その和の表現である武技を鍛錬することを通して、天の道に反かず、地の理に逆らわず、人の道に悖らず、天地人の理道に和するのであります。

吹く風の如く、流るる水のそれの如く大自然の理道に和するのであります。

日本武道独特の和の表現語「流す」「往す」「乗る」などの技は常に相手の強い力に抗することなく、その力を利用してこれを流し、その流しが廻って相手の力に乗って、その力を制しつつ相手への反撃の力となって加わることとなります。

自分は移動なしつつ四方八方に回転する球の如く、然も常に球の重心点を崩すことはなく、相手の実をさけて、これを虚として、相手の力を制しつつ自分自身の実が相手の虚に入るのであります。

防禦即攻撃、攻撃即防禦の法ということであります。

この境地は筆舌では開示なしがたい。

武技はガス体の球の如くその運動には極限がない。

極がないから無限であります。

どのようなものにも和し、どのようなものをも和するのです。

武技は千変万化無限で宇宙の真理に通ずるのであります。

そして形から入って形に止ることなく、形から抜け出た自由自在な形の無限の連続が武技なのです。

即ち和の技です。

和の表現された形の錬磨によって根本の和の道を究め和の道を求め和の精神を修養するのが武技鍛錬の目的であります。

武技は決して荒事ではなく天地人の理道に和した無理のない大自然の表現された和の形なのです。

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