空手道の歴史

空手道の歴史を学ぶということは、空手の武術としての心と技が、長い年月と数多くの人々の間に伝わって、研鑽を重ねて、その真髄が伝承されてきた過程を認識することができるので大切なことです。

 

門外不出の秘伝武術として沖縄に生まれ、伝承されてきた空手は明治になって一般に公開され、日本、そして世界へ広がるきっかけとなったのです。

 

 

空手道の要覧と現況

 

空手道は、門外不出の秘伝武術として、かつて琉球国と呼ばれた現在の沖縄において、誕生し、伝承された上で、本土(本州、九州、四国など)に本格的に披露されたのは1922年(大正11年)で、日本武道の長い歴史から見れば思いのほか歴史の浅い部類といえます。

 

現在、日本国内を統括する中央組織としては、財団法人全日本空手道連盟(JKF)が、昭和39年(1964年)結成。

 

昭和44年(1969年)に財団法人として認可されています。

 

そして都道府県連盟を始め、小・中学生から高校、大学、職域などあらゆる分野で体系的な取り組みがなされているのです。

 

一方で世界に目を向けてみると、戦後は組手の研究が進み、急速に海外への進出が盛んとなり、世界空手道連盟(WKA )には178ヵ国が加盟し、5000 万人以上の愛好者数は、サッカーに次いで世界第2位となっています。

 

 

空手道の歴史と呼び名

 

空手道は、琉球国において何時も中国拳法に影響されながら、それに創意工夫と改善を繰り返し、沖縄古来の武術「手(ティー)」と中国の「拳法」を融合させ続ける一方で独自の武術として発達したものが空手の原型だといわれています。

 

 

沖縄古来の武術「手(ティー)」と中国の「拳法」が融合

 

琉球国と中国(当時は明国)との国交は、三山(南山、北山、中山)鼎立という勢力分野の一つであった中山の王察度(さっと、在位、1350~96 年)が明国へ朝貢した1372年を始めとしています。

 

 

明国は察度王の申し出に応じて1392年に500人以上の学術、技術、航海術などの技術者を琉球国へ帰化させています。

 

その人たちが最初に中国拳法を伝えたことが判明しています。

 

琉球には明との国交以前から「手(ティー)」と呼ばれる武器を用いない独自の武術が存在したといわれ、「手」をベースとして中国拳法を受け入れ融合したとされるが、資料が乏しく確たる裏付けは見受けられていないのが現状です。

 

 

空手道の呼び名は、「手」を「沖縄手(ウチナンティー)」と、中国拳法を「唐手(トウディー)」と呼んで区別したと伝えられております。

 

その後、「唐手(カラテ)」、「唐手術」、「唐手拳法」、「空手術」「空手」など様々な変遷を経過して「空手道」に至っています。

 

明治維新後の沖縄と空手

 

明治維新によって、琉球国は明治5年(1872 年)琉球藩と変わり、明治12年(1879年)から沖縄県と改名されたのです。

 

この頃、本土と同様に一時期、武道は衰退しています。

 

そんな状況で、武士・松村に指導された糸洲安恒(1831~1915年)は、明治34 年(1901年)に首里尋常小学校において空手指導に取り組み始めたのです。

 

そして、ほどなく沖縄県学務課に青少年に対する空手教育の有用性を具申し、明治38年(1905年)から小学校ばかりでなく旧制の沖縄第一中学校、並びに沖縄師範学校で正課授業採用が決定し、これが学校教育の場に登場する先駈けとなりました。

 

 

このことを基点として沖縄生まれの武術がこれら教育課程への参入が切っ掛けとなり空手は近代化へと一歩を踏み出すことになるのです。

 

中興の祖と後に称されるようになった糸洲の功績として評価されるのは、学校教育のための指導法を確立するとともに、技術体系の中核となる「形」を学校教育に合わせたレベルで再編成したことです。

 

 

その上新たな「形」も創作したことであります。

 

糸洲の創作形は、教育的価値をもって今なお引き継がれています。

 

一般的に維新後の沖縄では、唐手と書いて「カラテ」と呼んだが、 唯一人、糸洲門下の花城長茂(1866~1937年)が明治38年(1905年)に書いた指導解説書に「空手」の字を用いております。

 

 

しかし、その後、「唐手」から「空手」に、そして「空手道」へと名称が変わり定着するまでは長い年月を要したのであります。

 

空手道の本土への上陸

 

空手道の本土への上陸は、明治41年(1908年)の「大日本柔剣道青年大会」(京都市・武徳殿)と、大正5年(1916年)の「大日本武徳会設立20周年記念大演武会」(京都市・武徳殿)の2回、「唐手の形」として演武公開されています。

 

 

尚且つ正式なお披露目は大正11年(1922年)5月、文部省主催の「第1回体育展覧会」に、柔道の嘉納治五郎の推薦により富名腰義珍(1867~1965、後に船越と改姓)が招待されて「クーサンクー」の形を演武したのです。

 

 

その前年の大正10年(1921年)には時の皇太子殿下(後の昭和天皇)が欧州視察旅行往路の途中に立ち寄りご観覧なされています。

 

従って、空手の存在は既に武道関係者には知られていたことと、嘉納の強い関心が幸いしたものと推察されます。

 

尚且つ展覧会における演武が終わって帰県するはずだった船越は、嘉納の要請に応じて帰郷予定を延ばし、講道館で空手を再演しています。

 

その結果、その後も引き留められて講道館の高段者、警視庁の武道教師を対象に指導を行なうことになります。

 

滞在が長引いた船越は沖縄県人寮の「明正塾」に居を定め、他にも慶応大学、東京大学などで指導するようになっていくのです。

 

これと相前後して、本部朝基(1890~1941)、摩武仁賢和(1889~952)等が関西地区を拠点に指導を行なっています。

 

沖縄において生まれた空手道は、武術としての価値や武技レベルの高さに衆目の関心を 集め、礼節を重んじ武技の修錬が人間形成の一助をなすとう古来の武道精神としての条件を満たすものと認められるようになっていくのです。

 

 

そのうえ、嘉納のバックアップも功を奏して一歩一歩武道としての地位を確立するようになります。

 

戦後いち早く空手普及の推進役となるのは、戦前・戦中に大学で空手を学んだ学生たちです。

 

そして、サンフランシスコ講和条約締結(昭和26年9月)後に、空手の魅力は戦後復興に邁進する人々に受け入れられ、あたかも燎原の火のごとく津津裏裏まで普及浸透することになります。

 

 

唐手から空手へ

 

明治38 年(1905年)に花城長茂が用いた「空手」表記の記載は一過性に終わったため、本土に紹介された当時は唐手(からて)、又は唐手術が一般的な呼び名であったようです。

 

この「空」の字は、仏教思想に通じる表現であり、当時の社会風潮から唐手と呼んだのではしっくりこない国情もあって、次第に空手の字が使われるようになったようです。

 

命名に関して、船越義珍が参禅したといわれる臨済宗大本山圓覺寺(1282年創建、鎌倉市)当時の管長の古川堯道(1872~1961 年)の助言があった説が有力です。

 

改名に積極的に関わったのは「慶応義塾大学唐手研究会」の学生で、昭和4年(1929年)4月15日付けの同会機関誌に『以後、唐手を空手に改める』と記載があって、これが記録に残る改名の最初です。

 

しかし、その後も唐手の文字が広く使用されており、一般的に空手が用いられのは昭和10年(1935年)以降のことになります。

 

元々が「徒手空拳」という熟語があるので、全くの独創や偶然から出た字句ではないはずなのです。

 

空手から空手道へ

 

空手から空手道へ変わったのは昭和10年前後からです。

 

その頃から、流派の名乗りもあり、流派の発生と「道」の思想がアピールされたことと起因しています。

 

全ての武道に共通するものとして、新たに流派を名乗ることは既成の技法を超える独自性が必然ということになります。

 

空手道の場合も同じ様に、在来武道と比肩して遜色ない高邁な思想に解き明かされた技と、新たな創案工夫による武術技法の実績が必要不可欠です。

 

本土に移入されて10 年余り、世間が空手の武術的有用性を認め、評価が高まるこの時期に「道」として標榜できるまでの成長を果たし、既成の武道の仲間入りを可能とする努力が払われた結果、空手道と称し流派も構成されたのです。

 

その後、各流派会派ごとに行われていた大会を、統一ルールの元に開催する機運が高まり、1964年に財団法人全日本空手道連盟が設立されました。

 

現在では空手道競技が国民体育大会の正式種目の一つとして行なわれています。

また、毎年12月に日本武道館で全日本選手権大会を開催しています。

 

そして、全日本空手道連盟はJOC(日本オリンピック委員会)に加盟。

 

2020年の東京オリンピックでは正式種目として、参加することが決定しています。