空手の組手が上達する無足の法を、本気で学ぶには、それなりの心構え、態度が必要です。
無足の法や浮身などの術を稽古をしてきた身体は、そこにいて強さを発揮するのではなく、相手が攻撃すべきものを消してしまいます。
力や強さで隙を防御するのではなく、相手が攻撃してきたまさにその攻撃目標を消してしまうのです。
力ではいくことのできない究極の武道は、基本的に体力、素養を前提とするものは存在しないのです。
空手の組手が上達する無足の法とは
空手に限らず武道で組手を上達するためには「居つき」をなくさなければなりません。
そのための無足の法とは、床からまったくエネルギーを受けずに体を変化させる足捌きなのです。
例えば、何かにつまずいて倒れようとした時自然に足が出ますが、この一歩が無足に繋がる考えなのです。
ただ、無足の法は正中線はかならず崩さずに入り身で床を蹴らず、踏みしめないので、ほとんど踏み込みの音もしない動きとなります。
まさに、無挙動ですべり込む様にスッと入っていくのです。
体の一部分つまり腰の回転で誘導した動きでは、ワンーテンポもツー・テンポも遅くなってしまいます。
すなわち、無足による体捌きで重要なことは腰を回さないということで、回って、回らずに、常に一調子で動作が完了するものなのです。
この一調子の体捌きとは、一つの目的に向って全身がくまなく協調した動きのため始まったと思うと終了しているのです。
つまり、動きが消えてしまうわけです。
勿論、本当に消えてなくなるわけではないのですが、それが速くてとらえられない動きとなり、「かかって行った瞬間、何やら分からないがやられていた」ということになってしまうのです。
空手の組手で相手の攻撃を一瞬の無足による入り身で、気配を消し、動きを消し、身体を消し、けっして相手に逆らうのでなく、そこに居て居ない状態にすることが究極の上達法と言えるのではないでしょうか。
空手の試合(組手)は相手の間合いで勝負をかける
空手の試合(組手)では相手の蹴りの間合いに故意に身をさらし、いつでも動ける柔軟な構えでスタンスは広すぎず狭すぎず、相手を追い込みます。
その結果として、相手はたまらず、蹴りを出してきます。
その瞬間、その前蹴りに呼応して、相手の蹴り足の内側に踏み込んで相手の蹴りを防ぎながら、飛び込んで突きを極めるのです。
これは「相手の蹴りに対して動いた」のでなく、間合いと気によって、蹴らざるを得ない状況に相手を追い込んで、正中線上に無足による入り身で体を捌き突きを極めます。
または、追い込んだ時に、相手が攻撃する意志がないと思えたら、すかさず無足の入り身で気配を消して飛び込み、
右手で相手の前手を抑えながらの上段突きから後足を寄せ、更に間合いを詰め続けての上段突きとなると、
相手は何やら分からないがやられてしまったということが起こります。
まずは、相手が蹴りたくなる位置、相手の蹴りの間合いに、自分の身を置きます。
そして、蹴りを出させます。
瞬時に判断して、出合いを取るとか、タイミングが合わなければさばくという具合に、次の動きに移るのです。
コチラから積極的に追い込んでいくと相手が回し蹴りでくるのか前蹴りでくるのかは瞬時に判断が出来るようになります。
相手の初動を見て「回し蹴りがきた」「前蹴りだった」という様なやり方では、反応が遅れて追い込まれてしまいます。
相手の初動に対して、気配を感じがしたらサッと入っていくのです。
相手の技を確認している時間はありませんが、正中線がしっかりと取れていれば、相手の攻撃はかわせるものです。
相手の間合いで勝負をかけ、相手が乗っかってきたという感覚があるときに、バン、と一気に踏み込んでいくのです。
このように勝負はちょっとした判断のタイミングで、その是非が決まってしまうのです。
宮本武蔵のタイミング習得の秘訣9ヵ条
宮本武蔵は五輪書の中で、「とりわき兵法の拍子、鍛練なくては及がたき所也(中略)
いづれの巻(地、水、火、風、空の五巻)にも拍子の事を専書記也、其書付の吟味をして、能々鍛練有べき物也」
と書きながら、行をかえて、
拍子を会得するための心得を九ヵ条にわけて教えてくれています。
要約すると次のようになります。
第一 邪心を捨て、素直な心でなくてはいけない。物事をひねくれて見たのでは物事の本質は見えないばかりか、間違った認識をしてしまう。そうなれば正しい拍子は会得できない。
第二 何事においても、鍛練が重要であり、しかも、その鍛練は実践を通してすることがより大事なことである。きびしい実践的トレーニングをつむことによって、理屈ぬきに拍子を会得できる。
第三 いろいろな芸に触れ、各々の芸の拍子のちがい、また相通じる点などを知ることが大事である。
第四 自分の職域に関することだけでなく、他の多くの職業、職域にも目を向け、各々の立場のちがい、どこに苦心があるかを学ぶ。
第五 あらゆる物事の損得、何がマイナスで、何かプラスになるかを知る。
第六 あらゆることについて勘と判断力を磨くことを忘れてはいけない。特に勘を磨くことは成功者に全て共通した条件である。
第七 形や動作に現われない目に見えないことについても、注意を払い、洞察できるよう鍛練し。心がける。
第八 ささいなことであっても、いいかげんにせず、常に緊張感を持って対処することが大事である。
第九 何の役も立たない無駄な行動はしないという強い意識が必要である。何の役にも立たないようなことばかり日常やっていたのでは、いざというときに何が大事なことなのか区別できなくなるからだ。
無足の法は究極の武道の秘訣
無足の法は足が無い、足がいらない、足は無用と表現していますが、実のところ、足を最大限に自由自在に働かすための術理術法なのです。
あなたは、自分の足や身体は自分の意思によって自由に動かせるものと思っていませんか。
日常の立ち居振舞から跳んだり、走ったりにしても、自由に動けているから何も不自由は感じていませんよね。
しかし、武術的な術技としては、それらのほとんどすべてが、不自由で不合理な動作となってしまうのです。
武術的な足の動かし方は、それまでの自分の足を否定することによって、、ごく自然的で有用な足に生まれ変わるのです。
そして、究極の武道の世界は、力では行くこと、たどりつくことのできない世界であり、生来の速い足がいきなりそのまま武術の世界において長所とはなり得ないし、反対に生まれつきの固い身体が欠点となるかといえば決してそうではないということです。
すなわち、即物的な足の遅速や身体の硬軟、年齢、性別などはまったく問題にならない世界なのです。
無足の法や浮身などの術は、そのまま手にとったり、眼で見ることはできないものなのです。
しかし、武術的身体というものは、否定に否定をかさねて表れた、見えないがあきらかに存在する身体以外の身体であり、また師から弟子へとつながるたった一つのものであります。
その個々の個性が否定された果てに生まれた一個のものであるがゆえに、さらに速く、もっと速く、もっと柔らかく、と心に念じて無足の速さそのものを追求することが大事なことなのです。
脚力に頼った足の使い方では、どれほど速く動いても二調子以下の遅い動き方となってしまうのです。
その駄目な足の使い方をいったん捨てさせるために「無足」と称したのです。
しかも、それは素質にはまったく関係のないものであるから、学ぶことに意義があるのです。