空手にはそもそも、流名はなく「唐手」と称されていたのですが、昭和6年ごろから「空手」と書くように変わったのです。
その唐手は歴史的背景から護身術として生れ、秘密保持のため独りで行う型を基軸としたものでした。
大正11年6月、富名腰義珍師によってはじめて東京に伝来して、次いで本部朝基、摩文仁賢和両師が来阪、以降日本国内に広まったものなのです。

伝統派空手の和道流が空手の流名の発祥
大塚博紀師は、唐手を日本武道のように変転自在な技の完成のために日本武道の組手形による稽古方法をとり、なくてはならない「間と気合」の錬磨ができるように専心努力し、組手形、居捕、立合、白刃捕を創案、和道流空手道を創始したのです。
これが空手においての公式の流名の起りでして、以降は雨後の筍の如くいくつもの流名が次々に出現して、現在に繋がっています。
和道流の根本理念「和の道を究め、和の道を求むる」
和道流の根本理念は絶対に「和」を求めなければならないのです。
どんなことがあっても自分自身で「和」をなくしてはいけないのです。
その為の武道修業ということで、この至難の道を敢て求むるためには、優秀な知的能力、目的遂行に役に立つゆるぎない精神力、不屈不僥の気力、困難に耐え得る体力を必要とすることになるでしょう。
かりに筋が通らない見解が出ようとも断じて自ら「和」を破ってはいけないのです。
相手が「和」を捨て争いを目論んでも、自分から争いに先んじてはならないということなのです。
武技を、先行して用いねばならぬことほど人間として最大の不幸はないのです。
しかし、万策尽きて最終手段としてこれを活用する以上、絶対に平和を取り戻さなければなりません。
そのためにはどんなことがあっても勝たねばいけません。
日本武道には「自ら反りみて縮くんば干万人と雖も吾往かん」の気概を持ち、
皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を切り、骨を切らせて髄を断つという生死をかけて勝たねばならぬ教えが存在します。
身はたとえ斃るるとも、必ず敵を斃さねば止まぬ、日本武道は積極的であり、大乗的であります。
武道の「気構え」「心構え」
剣は人を殺傷するものでなく人を生かすためのものであると喝破した、山岡鉄舟の「無刀流」の真意こそ、日本武道の極致ではないでしょうか。
武の字義は、本来「戈を止む」であるといわれているのです。
人間は相争う本能を持っているが、また争いを忌避する本能も持っているのです。
天災は避けられぬと言いますが、人災もまた回避できないものと言えます。
こうした災害に対する準備を常に怠たりなくすることが武道にいう「気構え」「心構え」ということを意味します。
争いの根源は全て人間の精神から派生するものです。
従ってその精神こそ、正しい「武道精神」でなければならないと言えます。
いつの時代でも「争いを止むる」ことが武の本義であると信じます。
正しい武道精神を体得する
空手修業において正しい武道精神を体得するためには、まず忍耐が肝になります。
実際の空手の稽古は、誠に地味で単調な基本技の反復修錬から始まります。
しかも、空手の諸動作はこの基本技に限らずすべて体全体を無駄なく、そして最高度に運用するところから、極めて激しい運動量を必要とします。
この倦きやすく、辛い基礎の稽古は、空手の修業からどうしても切り離すことが無理なもんです。
こうした基本技をしっかり身につけることによって、吾々は型から基本組手、さらに奥が深く活きた稽古へ進むことが不可能ではないのです。
空手修業者の第一歩は、こうした基礎の稽古に耐え、しかもこれを中断することなく続けること以外にありません。
武道は和の道であり武技は和の技
和の表現である武技を鍛錬することによって和の道である武道の理念に徹し、和を貫き通す精神を鍛錬することが可能となります。
武技は天の道に背かず地の理に逆らわず人の道に惇らず、天地人の理道に和し、吹く風の如く流るる水の如く大自然の理道に和するのであります。
水上に浮ぶ瓢はいかなる激浪にも逆らうこともなく波浪に乗ってこれをさけるので決して沈まない。
「流す」「往す」「乗る」
技は常に相手の強靭な力に手向かうことをせずに、その力をうまく使ってこれを流し、相手の力から己れを防禦し、流して己れを防禦する力が逆の方向への力となって相手を攻撃する。
武技の変化は球転の如く、自分の身を移動することによって相手の実を往し、これを制して虚となして、己れの実が相手の虚をつくことになります。
武技は気体の球の如くその変化には極限もありませんし、宇宙の如く無限大すなわち空であるといえるでしょう。
その技は千変万化無限大で宇宙の真理に通ずるのであります。
武技の型は無限に入る基点であり、型から入って型に止まることなく型から抜け出た自由自在な無限の型が武技だということです。
和の表現された型の錬磨によって日本武道の根本理念である和の道を究めることこそが、和道流の大道であると信じるのです。
武道修行は型による修業錬磨
日本古武道には各種各流派それぞれ型が存在します。
武道を修行するということは型に基づいて修業錬磨をやるのであるといえるでしょう。
型を基本として全てその応用変化が武技だということです。
基本となる型は必要不可欠で在りますので、正しい型でなければ駄目なのです。
正しい型とは、実戦で相手を制圧し、自己の生命を保持できる術技的身体を創り上げるためのものであります。
その型の要求する特殊の術技的身体の運用法の習得は永きに亘る努力、体力、気力の錬磨が必要とされることになります。
それを成し遂げるには、「精力善用」と云うことも重要であるのではないでしょうか。
全て技を行う場合不必要な力を用いたり偏在させたりすることなく、力を善用しなければなれなせん。
力は常により効率的に用いることが肝要であるはずです。
これは体力ばかりでなく精神力も同様で、心身共にスタミナをより効率的に用いるべきであります。
精力善用はまた吾々の日常生活上にも大切で、頭の働かせ方、金の遣い方、殊に二度と取戻すことの出来ない大切な時間の用い方など、みなより効率的じゃなければならないのです。
空手の突きに例をとってみても突いた瞬間の他は何はともあれ力を使わない。
突いた瞬間には全力を出すが、その前後には力をいれない。
突く前に力をいれたり、突いたあとに力を残したりすることは、力を無駄に用いることになります。
突く動作を起す前後に力をいれると、突きに最も大切なスピードが鈍り、その威力が損なわれてしまうのです。
また突き終った後に力を残すと、速かに次の動作に移ることが出来ません。
突いた瞬間以外の力は不必要でありますばかりでなく、それにより弊害となっているのです。
しかしながら難しいのは、突いたとき瞬開的に全力を出すが、その力は全身に均等にゆきわたって決して拳にのみ多くの力を集中させないことであります。
力は瞬開に全身へ均等に渡り、常に力の中心は体の中心の臍下丹田にあって、肩や足の方に偏在してはなりません。
また突いた直後全力を抜いた場合もその中心は臍下丹田なのです。
空手の修業は心身力の効率的な善用であり、精力の善用は空手の修業によって可能になります。
武の道も人生も帰するところは一つであるといえるでしょう。
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